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車中泊 カーネル vol.18

東北・三陸海岸を北上する

・・・その1・・・

Part13 旅人が見た震災後の東北地方


<<< 2013年9月10日発売 >>>




 カーネルSTAFF writer ・ photographer  岡村博文 Okamura Hirofumi

●筆者紹介●岡村博文 おかむらひろふみ
1957年生まれ。広島県在住。四輪駆動専門誌のレポーター・カメラマン。
高校時代からひとり旅が好きで、徒歩・自転車・バイク・電車・車を使い沖縄を除く日本を1周。
2001年よりは趣味のカメラで「朝日と夕日」撮影する旅を三十数回に分けて総走行距離約6万キロを走り(沖縄を除く)2010年に終えた。現在も続けて2周目に挑戦中で撮影のため全国を巡る。

東日本大震災から2年が過ぎた。
東北地方を旅してみた。
カメラマンとしては震災後に東北へは行きたいとは思っていなかった。
しかし今の東北の景色として記録して記憶に留めることにした。
<<<P54とP55>>>

撮影旅を東北にするか迷った?

 今年の1月頃から何処へ撮影旅に行くか計画を立てていた。3年前から撮影旅として日本2周目に入り、九州〜中国地方〜四国地方が終わり、現在は近畿〜東海へと撮影に出掛けている。順当な計画なら東北地方へ行くことになる。しかし、あの悲惨な“東日本大震災”が起きた場所にカメラを提げて行くのは複雑な気持ちで足が重かった。

 私が、震災後に東北へ行きたくないと思ったキッカケがあった。震災後の4月上旬に、親しくしているギャラリーのオーナーさんから電話が入った。「岩手県大槌町に実家がある松崎さんが撮影された写真を見てほしい」「多くの人が、東北に心を寄せながら長く支援をするきっかけにしてほしい」という企画のもと写真展を開催したいと。私でも何か手助けでもできればと思い松崎さんが帰郷して3月31日に撮影した画像を見せてもらった。

 TVや新聞で震災後の映像は見ていたので想像はしていたが、松崎さんが撮影した写真と「がれきだらけの風景から、かつて多くの家族がここで普通に生活していたことは思い浮かべにくいかもしれない。震災で何が失われたのか、写真を通して想像してもらえたら」とのメッセージが添えられていた。

 写真展に展示する写真を監修するためパソコンで画像を拡大して隅々まで何度となく見ることになり、壊滅状態の町や粉々なになった家々などから悲惨な声すら聞こえるようで身振るいがして恐怖を感じていた。

 もしカメラマンとして東北へ行くと、何にも構わずシャッターを切りそうで、地元の人に不快感を与えることになるのではないだろうか。また、皆が悲しんでいる姿を好きこのんで見たくもないし、決して物見たさに行くことはしたくなく、カメラマンとして震災後の東北は行きたいとは思っていなかった。


東日本大震災を理解したかった

「朝日と夕日を追いかけて旅をする」と決めて画像で記録として残すためカメラを手にしたのが12年前のこと。

 東北へは2005年に男鹿半島〜津軽半島〜下北半島を走り、2006年には、三陸海岸〜房総半島へ撮影旅で南下。本州でも東北は別世界でゆったりできる旅で景色も素朴感がありとても印象深いところ。それが2011年3月11日に東北に津波が押し寄せて家々を飲み込み壊滅状態になって景色は一変した。

 今年のゴールデンウィークには、東北を飛び越して北海道へ行こうとも思っている最中に、東日本大震災が起きて2年を迎えた3月11日には被災地をはじめ列島各地で追悼式が行われ、テレビ放映や新聞でも1面に報道された。紙面の中で「教訓を刻む・記憶や記録・風化させない」の言葉に目が止まった。TV放映や新聞に掲載される画像には“大槌町 役場庁舎”、“陸前高田市 奇跡の1本松”、“気仙沼市 第18共徳丸”、“南三陸町 防災対策庁舎”など津波の爪痕を残す記事が紹介された。その3月11日と12日分の新聞を捨てなかった。何度も読み返して、東北へ行こうと真剣に考え直してみた。

 結論は、行ってみないと3月11日の惨事を見なかったことになり震災の脅威を知らなかった “事”になる。ましてや撮影旅と言えども全国を走ると決めた者として、あの時間を無かったことにするのは、「自分が生きていた証」の記録を抹消して“意義”に反することにもなる。実際に、自分の目で見て、地元の方の話を聞き、現実に起きたことを理解したいと思った。

 ならば、TVや新聞で見た景色や震災を身近に感じた松崎さんが撮影した大槌町は、現在はどうなっているのだろうと知りたくなった。東北へ行こうと決めたのが4月中旬のことだった。



見える景色のギャップにただ驚く限りだ

 今回の旅は、2006年に三陸海岸を南下した逆ルートで、仙台から東松島〜牡鹿半島〜女川町〜気仙沼〜陸前高田〜大槌町〜宮古〜鵜の巣海岸〜田野畑〜北山崎と三陸海岸を北上して八戸へ抜けるコースに決めた。

 自宅の広島県福山市から山陽自動車道〜中国自動車道〜名神高速道路〜北陸自動車道〜磐越自動車道〜東北自動車道を北上して宮城県:白石ICで降りて最初の目的地の仙台空港に着いたのは家を出て18時間後(走行距離1100km。仮眠2度)だった。

 仙台空港から若林区へと県道10号を走ったが、いきなり茫然とした。海から陸地へ1〜2kmほどに家がなく、まぎれもなく津波が来た範囲が見てわかるほど何もない。ガレキはかなり片づけられているが広い範囲が見通せるくらい何もなく広々とした景色に見える。そんな景色の中で写真を撮ろうとしたが、何を撮っていいのか解らなかった。津波の届かなかった位置まで来ると、そこは見た目では普通の生活をしているような町並みとなる。目をうたがいたくなり「このギャップはナンナンダ? 普通に見えるだけだろうかな?」とひとりごとをいってしまう。

 日本三景のひとつに数えられる“松島”の西側にある“双観山”から松島湾を望んだ。松島湾に浮かぶ260余りの島々で津波が3〜4mと低くほかの地区に比べ被害が少なく済んだのだろうか? 復興が進んでいるだろうか? 松島町は観光客で賑わい国道沿いの駐車場は満車でクルマを停めることができなかった。しかし、東松原市の牡鹿半島“金華山道(県道2号)”を走ると途端に小さな漁港や港が壊滅状態で周囲を見渡すと波がとどいた高さが解るほど境ができている。「何が起きたのか? 家が無い? これは酷い!」と驚くだけ。そして地元の人達が住む仮設住宅が湾と湾の間の少し高い位置に点在していた。「ほんとうに住む場所・家が無くなったのか」と痛感した。

 女川町へ戻り、国道398号線を走り南三陸町に入り国道45号線をさらに気仙沼〜陸前高田〜大船渡〜釜石〜大槌町へ北上する。女川交番では建物が引っくり返る、防災対策庁舎では建物を超える津波、大きな船が陸地に居座る姿、どこの町も津波で壊滅された爪痕を残していた。旅人として現在の東北を走ってみて、何度となくクルマを止め、何度となく考えさせられ、幾度となく目尻に涙がたまり、自然の前には無力だと思い知った。

 気仙沼市の第18共徳丸に朝日があたるのを見た。朝日を見ると、太陽から力を受けるはずなのに、この地での朝陽の力が弱く空気感が重く感じられた。「どうやって、ここまで船がながされたのか」「どれくらいの波の高さだったのだろう」と悩んだ。あたりをゆっくり歩くとその波の高さが手に取るようにわかる。命の生命線とでもいえる境界線が見える。

次号へつづく


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東北大震災による津波が町並みを飲み込んだ岩手県大槌町
私が今回の東北旅へ行くキッカケになった写真。(松崎さんに掲載承諾済)
2枚並んだ写真、左が2011年4月・右が1976年3才の松崎さん。
震災後20日後に大槌町の実家に片付けを頼まれ帰郷した時に、「家族の記録を残さなければ」と撮影された写真。
私の知人のギャラリーでも「多くの人が、東北に心を寄せながら長く支援をするきっかけにしてほしい」と企画(タイトルは「失った時を求めて」)で開催。その後に広島県内数カ所で巡回展示され新聞にも掲載された。
2012年度、第44回中国新聞短編文学賞、優秀賞「思い出のカケラ」を受賞。実家を片づけながら山になったガレキに、街の人々の想い出が詰まっていることを感じながら昔の子供の頃をイメージした作品。
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※今回の旅は2013年5月に東北を訪れたもの。掲載する画像や記事は当時の内容として作成。本誌が発行されるまでにかなりの時間が経過しているので、現在との相違があるようでしたらご了承願います。

 <<<54・55ページの写真の説明>>>

キャプション 01
宮城県気仙沼市 第18共徳丸
朝陽を浴びる第18共徳丸から反射する光は何かを訴えているような気がする。330トンの船が海から750メートルも離れた場所に運ばれている。これだけの大きな船をここまで流すにはどれだけ津波の威力があったのか想像がつかない。残された船の周囲は生活していた家々の跡が確認できる。


キャプション 02
仙台空港付近の景色
仙台空港まで津波は到達していたのでこの位置も被害にあったところ。復興も進みガレキは見当たらず、あたりは広々として壊れている家が数件ではあるが残っていた。


キャプション 03
宮城県女川町 石巻署女川交番
災害に強いとされている鉄筋コンクリートの建物だが破壊された姿を残している。町も早くから「現場をそのまま残す」の方針で他の建物を保存候補としてあげているが色々と問題があるようだ。


キャプション 04
宮城県南三陸町の防災対策庁舎
最後まで避難を呼び掛けた・・・「高台へ避難してください」と防災無線で繰り返し呼び掛けた。3階建て庁舎の屋上より2mを超える津波が襲った。現在残る建物の前に立つと「逃げてください」と言われているようだった。


キャプション 05
宮城県気仙沼市 第18共徳丸周辺
船の周囲をゆっくり歩いて見て回った。家々の基礎が残り、右の土手がJR大船渡線であるが、波はここまで到達して線路を曲げていた。現在でも土手には使っていただろう割れた食器類が散乱していた。土手上の道より少し高い位置の家は無事だったようだ。ここが生命線(津波到達高さ)だったのかな?


キャプション 06
2006年の東北の旅から:宮城県松島の夕日
日本三景のひとつである、松島湾の東側で奥松島と呼ばれ宮古島の中央の山「壮観(松島四大観):大高森(標高106m)」からの夕日。2006年の旅で松島湾に沈む美しい夕陽を見た。


キャプション 07
2006年東北の旅から:岩手県宮古市重茂半島・トドケ崎の朝日
この旅の最大目的は、本州最東端の地から昇る朝日を撮影することだった。車中泊した駐車場を朝2時前に出発して90分ほど暗闇の細い歩道を歩かないと見れない。「本日の本州で見る一番早い朝日を見るのは・・・俺だ!」と思うと嬉しくて心が躍った。


キャプション 08
岩手県大船渡市三陸町 越喜来漁港付近
ここも津波の被害が大きかったようだ。木より右にある破壊された防波堤には、いまだに乗用車1台が海の中に残っていた。広い範囲の景色が綺麗になっていると人が住んでいなかったかのように見え不思議な気持ちなる。


キャプション 09
役場の止まったはずの時計が動いた?
震災直後に撮影された時刻は地震発生時刻が2時46分で止まっていた。その後、4月上旬には1時30分前、4月中旬は2時30分を指していた。そして5月に3時25分で止まった。津波が到達した時刻と同じだという。2ケ月かけて地震発生から津波到達の時間を動いたことになり、地元では奇談として語られているという。


キャプション 10
岩手県大槌町:JR山田線大槌駅
駅施設は何もない。線路も外されて乗り降りするプラットホームが残るだけ。ホームに立ってみて、かつて電車が走っていたなんて想像もつかない。


キャプション 11
岩手県大槌町:大槌町役場
大槌町は明治三陸地震津波、昭和三陸沖地震、昭和のチリ地震津波と津波被害を繰り返し受けている。津波来襲時には町長や職員が対策本部を設置準備していたが、津波接近を知って屋上に避難しようとしたが間に合わなかった。屋上までは津波は達していなかったのに。


キャプション 12
岩手県大槌町:小槌川付近
大槌町内の海岸線に沿って延長4.8kmにわたって建設を計画。場所によっては現在6.4mだが復旧後には最も高い所で防潮堤の高さは14.5mで5回建てビルに相当する高さを計画されている。大槌町土地利用計画(案)として「減災」「多重防災型まちづくり」の基本事項を元に復興しようとしている。


(<<<カーネルは年4回の季刊で刊行>>>
現在は3、6、9、12月の季刊で発売されています。

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